ぱちおのいろいろ。

プログラミング、イラスト、作曲、アニメ等好きな事や近況報告とかアウトプットしたい時に使います。

就職します

こんにちは、ぱちおです。

実は来年の4月から某大企業に就職が決定しました〜🎉🎉🎉🎉

まぁそんなこんなで10/9にあった東方紅楼夢が学生最後のイベントとなりました。

挨拶してくれた方々本当にたのしかったです。

いやまぁそれも言いたかったことなんですが、今回の記事

私はとても親に感謝したいことがあって、就職という区切りで文章化を何度か試みたのですが、元々シャイな性格なせいで電話どころかLINEで何か書こうとしても全然書けませんでした。

普段も実家帰るたびにいろいろ思うことがあるんですが、「ありがとう」すらまともに言えない始末です。

なのでこのブログを通して感謝していきたいなぁと思った次第です。

昔から作文だけはくっそ恥ずかしいこと書いてたりすることができたので。。。

基本親向けなので興味あればまぁみていってやってください。

小学生

物心ついて微妙に記憶が残ってるのはここからですね。

すごい泣き虫でしたね、私。特になんでもないようなことでよく泣く子だったことは覚えてます。

あと交通事故で町内のカーブミラー2つも建設したのは個人的武勇伝ですはい((

泣き虫だったことから結構いじめが起きてた時期もありました、あの時はお父さんお母さんすごい心配してくれて今思うと非常に申し訳ねえなぁって感じです。

別にそれが理由じゃないけどみんなとは違う中高一貫の受験制の中学に行くことになった時、正直まぁ任せましたという感じでしたw(あなたが決めてなんて言われたけど)

これをきっかけにあなたたちの前では泣かないなんて心に決めてたりしました(中学以降泣いてたらごめん←)

あと水泳スクール通えたのはすごい今となっても良い思い出です。

中学生

友達0の状態のくっそ不安な感じでした。

それでもなんとか必死にくらいついてとにかく両親を安心させてえという気分で最初の1年は頑張ってたりしました。

2年生では、母親が適当に流していた音楽の衛星放送がきっかけでVOCALOIDにはまって、オタクへと変貌していったのはおそらく知らないでしょう。翌年にはパソコンに張り付いてる子供になってましたね。

正直お父さんもお母さんも全然オタク気質なくて、家にある漫画が「はじめの一歩」「あしたのジョー」「一二の三四郎」のラインナップの中、「萌え」にいくわけないよねわかる。でも話を合わせようとするのかお母さんが俺が友達から借りてきた「ひぐらし」とか「けいおん」を弁当出すついでに俺より先に読んでたりしましたね。開口一番が「このけいおんって漫画男でないんやね」。このエピソード個人的に面白すぎてよく友達に紹介してます。

趣味で適当に始めたテニス部の大会の帰りです、よく覚えてる。

母から急に電話がかかってきて

「落ち着いて聞いて、お父さんが倒れた」


ドラマとかだったら「お父さんが!?」とかすごいリアクションするんだろうけど、あぁも突然来ると人間冷静になるのか「わかった」しか返せなかったです。薄情な感じもしたけどたぶん母同様に何を考えたらいいかわからなかったんですわ。

4日間も昏睡状態だったとかいうのもあまりに現実感なさすぎる現実でなんていったらよかったのか今でもわからないです。

「大丈夫」でも「頑張れ」でもない。「とりあえずよかった」しか言えなかったのが辛かったです。

左半身全身麻痺で顔の形まで崩れてまともに歩きも喋りもできない・・・小学生の頃遠征でいろんなとこいって週一でしか帰ってなかった父だったけど、なんとなく抱いていた父親像が崩れないか実はめちゃくちゃ不安でした。

でもお父さんはお父さんだった。

「生き残ったってことは神様がまだやることあるっていうことや。」

憧れですよほんと。よかった憧れのままだった。そう思いました。

でも父が倒れて会社がなくなり、従業員だった母も失業という形になって借金を抱えたりと子供の私じゃあ理解が及ばなかったです。

家の車庫にあった父の車がなくなって、自慢していたアコースティックギターも家からなくなって。あれがすごい怖かったです。

しまいには家にいるのはアレだと、親戚の家やおばあちゃんの家から学校を通ってたり。

今だからいうけど割と不安でした。

いつもと違う起床時間にいつもと違う弁当の配置、米の炊き具合、いつもない食材・・・あぁ実家が恋しいなんて思ったりしました。

あとは、家にかかってきた電話はとらないで、という指示が現実すぎて怖かったなぁと。

子供にできることはいつも通りに学校に行くこと、だなんて言ってくれたのでそれで問題ないならと一生懸命普通に学生生活しました。

お母さんは持っていた教員免許使って気づいたら先生になってたし、ものすごい濃厚な時期でした。

先生して病院で父の見舞いして、ぶっ倒れないか本気で心配したり、あと離婚なんかも脳裏によぎったり。。。。それでもめげずにそれを続けたお母さんは今でも世界一我慢強い女性として尊敬してます。

高校生

父がようやく肩を貸せば歩けるくらいまで回復して、事態は多少まとまりかけていた時期。

私が入院した。

親からもらってる体だけどさすがに腹が立ったというか情けないというか。

原因不明の腎臓の病だなんて「人生何があるかわかったもんじゃない」どころじゃなかった。

迷惑をかけたくないのに最大の迷惑をかけてる自分が本当に腹立たしかった。

母は仕事→父→私みたいなサイクルを永遠とやっていて顔もやつれてるように見えたし、あの時はありがとうとごめんなさい。

入院後これ以上負担はかけまいと成績を落とさないようになんとか維持できたのは奇跡ですね。

でも薬減らしたらまたセンター試験前に再入院かまして、本当にあの時は自身に対してつらかったです。

とりあえず確かこの辺でなんとなく絵をちゃんと描き始めたはず。

病室が同じだったおじいちゃんが「割り切ることも大事じゃよ」と言ってくれたのがある意味今の私を作ってると思います。私が原因不明の腎臓病気によって体へ水分が溜まり太っていくのに対し、おじいちゃんは栄養が回らずどんどんガリガリになっていく病気でした。そんな細い体でよく私の肩を揉んだりしてくれて元気をもらいました。今も元気なのかなぁ。

入院費やらもろもろで大学なんていかずに、適当に就職するのがいいのかと思ってた時、大学には行って欲しいなんて言ってくれて嬉しかったです。奨学金全載せでなんとかいけるみたいだったので、借金をいくらしようが親が喜んでくれるんだ、行こうと。

将来のビジョンもないのに大学に行くのもと思いもしたけど、ニコニコ生放送のセッティングとかが好きだったから何か役に立てるだろうと、情報系に進みました。

入院もして何も持っていなかった私が個性を手にいれるための大学、という認識でした。

この卒業の時期に11インチのテレビを自身の部屋に持ち込み、プリキュアにはまっていたなんて知る由もないでしょう。

大学

プログラミングのプの字も知らなかったけど、まさかこんなに楽しいものがあるのかというくらいはまりましたね。

高校卒業時思ってた重苦しいこと忘れて割と好き勝手やってましたw

実家にもいっぱい帰ろうなんて思ってたけど面白いことだらけだったのでずっと大学だったのはごめんという気持ち・・・w

できるだけ自慢の子になりたくて頑張ったりして賞をもらったりできたのはほっとしました。

イラストにも力を入れ始めたりして、帰るたびに両親を驚かせられたのはちょっぴり嬉しかったり。

久しぶりに帰ると母がDBの勉強してて「え、なんで」と聞いたら「お父さんにボケボケ言われるから何かできないかなぁって」

あなたのような我慢強い人になれたらいいのになぁ、なんて改めて憧れました。

「ぱちお」として色々活動してるのもばれ始めたのもこのころですかね。

今じゃTwitterもフォローされてるけど基本リプライ返さないからね?LINEにしてw

でもフォローして私を見ていてくれることは安心させたいしブロックなんかはしないから安心して。

就職

そんなこんなでついに就職することが決定しました。

今までずっと頼りきっていた「学生」から抜け出す時です。

私としては恩返しの第一歩がようやくできるので本当によかった。

今のぱちおがあるのもあなたたちのおかげです、本当にありがとう。

あと半年の学生が終わり、お金を稼ぐようになったらまたご飯食べに行きましょう。

とりあえずは残りの学生生活を見守ってください。

P.S.

死ぬほど恥ずかしいのでLINEで「確認したよ!」とか送ってきてもたぶん「どうも」とか「ありがとう」くらいのそっけない返事しか返せないので許してね。